<基調講演>
『ヒューマナイジング・ストラテジー』~経営に「野性」を取り戻せ~

一橋大学名誉教授、日本学士院会員、中小企業大学校総長 野中郁次郎 氏

ご紹介いただきました野中です。今日のテーマは「ヒューマナイジング・ストラテジー」、人間くさい戦略論というコンセプトでお話しします。

まさに時代は今、全てが数値で分析され、管理される世界に入ってきつつある。これはこれですごいことなのですが、私は危機感を持っています。それは、なぜか。詳しくは後で述べることとして、今、流行りの人的資本などと呼ばれているヒューマン・キャピタルやヒューマン・リソースとは、あくまで「見える化」して管理する対象である「モノ」や「カネ」としての人間です。

しかし、私は、そもそもモノやカネを生み出す主体が人間であると考えています。そういう人間観に立脚した「ヒューマナイジング・ストラテジー」、人間くさい戦略論に立ち戻ることが重要なのではないでしょうか。簡単に言えばそれで終わるのですが、これからその内容について展開してみたいと思います。

失われた30年 日本の知的競争力低下

私は、今は学者をしていますが、元々は企業人でした。富士電機製造に9年間在籍した後、米国留学をして博士課程を取得し、帰国して学者になり、現在に至ります。

日本の知的競争力が劣化した「失われた30年」ということが言われています。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で世界から日本企業が注目された時代以降、世界における競争力ランキングは降下の一途をたどりました。平成のデフレというのはあまり元気が出ない時代でしたよね。なぜ、そのような事態に陥ったのか、そしてこれからどういう展開をすべきか。皆さんの日々の実践への一つのヒントとして、私の考え方を申し上げたいと思います。

現在の「日本的経営」の危機 形式知の偏重

私は、日本の知的競争力が劣化した大きな原因の一つは、やはり日本的経営というのがあまりにも分析に傾斜しすぎたからだと感じています。オーバー・アナリシス、オーバー・プランニング、オーバー・コンプライアンス。つまり、行き過ぎた分析、計画、統制などで、人間が本来持っている野性、言うなればクリエイティビティが損なわれ、劣化し、みんな疲弊してしまった。社会学者の佐藤郁哉さんが著書「大学改革の迷走」の中で、「PdCa」 PとCが大文字でdとaが小文字、ということはプランとチェックが支配的になって行き過ぎて、ドゥーとアクションが劣化してしまった、という、うまい表現をしています。

「日常の数学化」の危機

我々が知識創造理論の哲学的基盤の一つとして、大きく影響を受けているのは、現象学者のエトムント・フッサールの考え方です。その彼が、第一次大戦時に警鐘を鳴らしたのが、「日常の数学化」です。要するに行き過ぎた科学至上主義のために、第一次世界大戦という、大義なき愚かな戦争が起こってしまったというわけです。

そもそも科学というのは最初に分析があって成立するわけではないのです。あくまで直接経験が起点になります。「考える」前に「感じる」ということが重要なのです。現象学で使われる「マッハの自画像」という図があります。マッハという人は、速度の単位で有名です。この図が示しているのは、現実というのは、この長椅子に足を投げ出して左目から見えている世界、つまり、「いま、ここ、私だけ」が見える現実だということです。

いま、ここ、私だけが見ている現実は常に動いています。外の風景を見ても人と人がそれぞれの主観、意味が違います。意味づけ、経験の質を問うという主観が最も原点です。いま・ここ私だけが見えている全身全霊で見えているのが現実なのです。我々はそれに意味を求めているのです。主観的に全身で五感も駆使して感じる質感(クオリア)が出発点になるのです。

つまり分析の前に、「感じる」ことがないと、新しい意味や価値は生まれてこないのです。一方、質感や意味を、意味だけ求めているだけではサイエンスにはならない。だから、きちんとした客観化が必要です。そのためには、本質を極める、それも徹底的に対話する。主観ですから客観に持っていくときには徹底的に異なる主観をもつ者同士が、真剣な対話をしていく、そうすると、やっぱり「こうとしか言えない」という普遍に近づいていくわけです。このように、各々が持つ主観を、客観的に共有できる集合知にするために、一緒になって前に進もうという考え方が、我々の考え方です。考える前に感じる、と言いましたが、知性の前に感性がある、IQの前にEQ、とおっしゃったのは、ソニーを再生された前C E O平井さんが言われたことです。現象学の発想というのはそういう発想なのです。

アートとサイエンスの総合 -知識創造理論の人間観-

フッサールは、「人間は意味づけと価値づけを探求する主体」だと言いました。私も、未来志向で、意味をつくる主体が人間なのだと思います。そして、関係性が大事です。他者との関係性の中で絶えず我々は生きています。

人それぞれ、主観は違っています。だから、関係性の中で、お互いに徹底的に共感、議論しましょう、徹底的に何の意味か突き詰めましょう、こうと言えないところまでやり抜きましょう、現実の真っ只中、皆でスクラムを組んで前に行きましょう、ということです。

そういう人間観や哲学を基盤に、経営学につなげてきたのが、我々の知識創造理論ということなのです。

身体性の復興 -人間の心は身体に根ざし、共感させることにある-

身体性の復権が叫ばれています。最近では、神経科学分野でミラーニューロンが発見されました。我々は絶えず無意識に共感するニューロンがあることがわかったのです。つまり言語を媒介にしなくても、相手の意図が分かるというニューロンがあるのだということです。身体感覚は意識よりコンマ5秒早いという実験結果があります。蚊が止まったなと意識しても、叩こうとした瞬間には逃げられてしまった経験が皆あるでしょう。

最近、心理学と経済学者が「GRIT」というコンセプトを出してきました。IQ至上主義が跋扈してきましたが、彼らは成功している子どもを研究し、実はやり抜く力がその源泉になっている、ということを実証しました。つまり、根性ですね。自制心、意欲、社会的知性、こういうものが重要なんじゃないかと提起したわけです。

人間とAIとの違いは身体性や身体感覚、身体記憶、五感の有無です。客観化の原点は身体感覚。全身全霊の身体感覚が創造性の源泉だということをGRITといっているわけです。そういった前提で、我々が世界発信したコンセプトが、知識創造理論というセオリーです。この理論を発信し続け、マイケル・ポーターらに代表される分析的アプローチと競争しているのです。なかなか苦戦していますが、やり続けています。

知識創造=イノベーション 企業はユニークな未来を創る存在

この知識創造理論を発信したのが『知識創造企業』で、英語と日本語で竹内弘高(ハーバードビジネススクール教授)と書きました。最近は、もう一冊『ワイズカンパニー』を出しまして、共通善の実現に向けた実践知という意味合いで、知識(ナレッジ)から知恵(ウィズダム)というところに来ているわけです。

改めて概略を申し上げますと、知識というのは「関係性の中で主体的につくる意味」です。量じゃなくて質なのです。一方で先にも述べましたように、知識の源泉は、直接経験に基づく自分の思い、これはまさに主観そのものなのですが、主観が主観のままでとどまる限りはサイエンスになりません。

相互の共感を媒介に、主観と主観を絶えず徹底的にぶつけ合いながら、本質を集合的に直観するのです。我々は、これを知的コンバットと呼んでいますが、そう簡単じゃないわけです。社会的に新しい意味を創り続けるダイナミックなプロセスですから。

現実は生きて動いているわけですから、新しい価値創造のプロセスというのはダイナミックでなくてはできないのです。試行錯誤の中から新しい意味を一緒に紡いでいく。しかし、それはそう簡単なことではありません。

暗黙知と形式知の相互作用 -本田宗一郎の共感と対話-

以前、アメリカのデトロイトにある自動車の殿堂を訪れた際のことです。実は、自動車の殿堂に最初に入ったのが本田宗一郎なのですが、彼のコーナーに展示されていたのはこの2枚の写真です。一つは、二輪車のテストコースで、宗一郎がかがみ込んで膝をつきライダー目線で、全身全霊でライダーに向き合っています。即ち全五感です。手でエンジンの衝動を感じ、鼻でガソリンの匂いを嗅いでいるわけです。相手になりきり、暗黙知を全身で浴びています。要するに身体知で、それは無意識も含んでいるのです。

全身全霊で感じるということであり、相手になりきっています。なりきりながら、俺だったらこうするぜ、というものがそこからまた生まれてくるわけです。それが新しい意味です。相手に共感しつつ、でも俺だったらこうするな、という自分の意味、新しい意味を直観する。相手に共感しながら、自分で主観的に新しい意味を生み出していくということです。それがアイデアの源泉です。

組織としてイノベーションを起こそうとすると、自分の主観を二人称以上に変換しないといけません。テストコースで宗一郎と同じようにライダーを見つめて写っているのが自分の部下です。同じ場で共感することが重要です。ライダーのテストが終わった直後に、何をどう感じたか、を、これからつくるバイクはどうありたいか、と議論しているのが右側の写真です。ここでも宗一郎は、相手に全身全霊で向き合っています。部下と目線を合わせて座り込んで議論しているのです。上から見る、下から見るではない。目線を合わせて議論する。同じ時空間を共有して、あなたならどうする、から対話が始まっているわけです。

コンセプトというのは言葉にしないといけません。物事の本質を凝縮するために徹底的に議論を深めなければ本質は見えない。見えないものの背後にある普遍が本質なのです。向き合って目線を合わせて言葉にしなければ、コンセプトはできません。相互の暗黙知や直観した思いやアイデアを共有するために、まずはポンチ絵で表現することから始めている様子がわかります。

イノベーションの原型が、まさに共感と対話にあるわけです。知識創造理論は、元気だった頃の日本企業の当時の商品開発、ホンダのシティや、キャノンのプリンターなど、代表的なイノベーション事例を研究して閃いていったわけですが、それは次のようなSECIモデルという形になっているのです。

SECIモデル:組織的知識創造理論の一般原理 -共同化が起点となる-

S E C Iモデルは、個人の知の創造モデルではなく、組織的な価値創造モデルであり、最初の起点は共感なのです。

欧米の哲学は、「我思う故に我あり」で有名なデカルト以来、一人、頭、知性、分析、まずここから始まるのです。一方、我々のモデルは共感から始まります。

組織、つまり個人知ではなく、集合知の創造モデルです。SECIモデルが世界的に若干知られた理由は、個人知の創造モデルではなく集合知の創造モデルであるというのが特色です。だから共感から始まるのです。

最初のフェーズは、現実を感知して相手の視点に立って暗黙知を獲得する「共同化」です。再三申し上げているように、共感、全身全霊に感じることからイノベーションは始まるんです。ちなみに、この図の中の、Iは個人、Gはグループです。次に、共感を媒介にした徹底的な対話です。本質は何か、背後にある普遍の意味は何か、という仮説、コンセプトをつくらなければならない。きちんとした共感をベースにコンセプト化するのが「表出化」です。

個人知が、二人称のペアを基本単位にしてグループになります。グループで創ったコンセプトを普遍化して組織知にしなければならないので、組織のクロスバウンド、境界を越えて、あらゆる知を自在に組み合わせて、集合知として理論、あるいは物語にするのが次の「連結化」なのです。連結化で集合知になった体系的なモデルとなった理論、物語、戦略を実践してやり抜きながら自己変革していくのが「内面化」です。

簡単に言えば、共感から概念、理論、そして実践する、そこで初めて個人と集団と組織と社会が全部つながるというのが組織的なイノベーションの本質なのだということがSECI モデルが示していることです。このスパイラルを無限に回し続けるのが新しい価値を創出するイノベーションなのだ、というのが、我々の基本的な考え方なのです。

エーザイのSECIスパイラル 共同化が起点

実践しないことには理論ができないため、検証できません。世界で初めて我々の考え方を採用していただき、面白そうだからやってみようじゃないか、と言ってくださったのが、エーザイの内藤晴夫CE Oです。何を実践したかと言うと、まず共同化、共感です。とにかく、病棟や介護の現場を訪問して患者さんと共に時間を過ごすことを実践したのです。

例えば、研究開発の社員が、老人ホームに行って毎日感じてみる。相手は、認知症ですから徐々に過去の記憶が劣化していくわけです。質問に答えてもらっても、それは本当かどうかというのは分からない。直接行って、全身全霊のありとあらゆる振る舞いも含めて感じる以外にないのです。そして、社員同士で、それぞれが共同化した現場で感じた直観をガンガンとぶつけ合う。あるいは各地域の住民も巻き込んで対話する。そこからコンセプトを生み出し、市民フォーラム、グローバルの拠点があり、そこで集合知として展開するのです。このSECIモデル全体を支援する、知をつくることをサポートするのが「知創部」という社長直轄組織です。

 

ヒューマナイジング・ストラテジーの基盤 ①共通善:存在意義

次に紹介するのが、ヒューマナイジング・ストラテジーの3つのポイントです。一つは共通善Common Goodです。現在ではパーパスなどとも言われていますね。日本的経営では、元々やってきたことではあります。Common Goodという言葉は、哲学者アリストテリスが原点です。

ピーター・ドラッガーがパーパス、という言葉を、経営学で初めて使いました。彼は、3人の石工で説明しています。どうして、レンガを積んでいるのか、と問われた石工がそれぞれ、「親方の命令でやっている」、「金回りが良いから」、「後世に残る大聖堂を創っているんだ」と答えるわけです。パーパスをどう持つかによって、まったくやっている仕事の意味が変わってきます。

パーパスという言葉は、最近では、マイクロソフトのトップであるサティア・ナディラが普及させたのですが、共通善がやっぱりpurposeの本質だと思います。パーパスは、WhatというよりもWhyを示します。Whyというのは、問い続けることで関係性が広がるのです。Whyは、なぜ存在しているのか、という問いに対して、こういう生き方をしたいという関係性がずっと膨らんでいくんです。究極には、何のために生きているのかということです。

 

エーザイ 共通善にもとづく日本初のイノベーション

以前、私が社外取締役をしていた頃に、エーザイの内藤さんは企業理念を定款に入れ込みました。定款というのはいわば会社の憲法です。定款の変更は株主総会で議論する必要があります。定款に企業理念であるhhc(ヒューマンヘルスケア)を盛り込み、株主にコミットするわけです。株主も承認したら、逆にhhcに則った企業の活動を容認しなければなりません。エーザイは、その企業理念の内容をさらに進化させ、22年に定款に定めた内容も改定しました。以前と違う点は、患者と生活者のベネフィット向上をヒューマンヘルスケアを通じて行うこと、そして、他産業と連携し、エコシステムを創って、日本発のイノベーションを行う、というようなことです。

最近では、「レカネマブ」という新薬をFDAが認可しました。治るかもしれない、少なくとも遅らせるという(アルツハイマー病の)薬の開発が認められたわけです。そうやって、エーザイは共通善をお題目にするのではなく、きちんと実践しています。

 

ヒューマナイジング・ストラテジーの基盤 ②相互主観性

2つ目が共感です。相互主観性とも言います。

 

ブーバーの出会い:“Encounter” 我-汝(I-Thou)関係
-人は、人との関係性の中で人となる-

我々のSECIモデルというのは集合知のため共感から始まります。共感は2人、二人称が原点になります。私とあなた、貴様と俺、戦友。哲学者マルティン・ブーバーが言っていますが、全身全霊で人と向き合う、相手の視点になりきる共感です。自分の思いだったら一人称で終わるが、組織的にイノベーションを実現するには、一人称の主観を客観、つまり三人称に変換しなければなりません。主観と客観の二つを媒介して総合するのは共感、二人称です。二人称が利己と利他を総合する原点であるということが重要になってくるわけです。

 

フッサール:二重の相互主観性 -いま、ここで君がいるから、私も生きる-

人間の「感じる」の中には、実は意識と無意識があります。無意識について、初めてきちっと理論化したのは、現象学です。乳幼児期において、母親との関係というのは、無我の境地、全身全霊で無意識に共感し合う関係性でした。

しかし、成長していくと、言語を覚えて知性が発達し、相手を対象化して分析し始める。しかし、そこで止まっていては、普遍にならないです。言語を覚えて知性が発達した大人同士が、意識、無意識も含めて自我を超えて、相互にこうとしか言えないよね、と対話を通じて突き詰めるのが知的コンバットです。全身全霊で知的コンバットをやる。そこでやっと利己を乗り越えていくことができるわけです。

 

知的コンバット:共感と対話による自在な意味づけの場

日本企業が元気だった頃というのは、意識的・無意識的に、ホンダのワイガヤとか、トヨタのアンドンとか、現場でたくさんの知的コンバットの場がありました。セブンイレブンのチームMDとかも利害を超えて競争と共創を行って、新商品開発を行っています。アイリスオーヤマは、毎週月曜日に新商品開発会議で、ワイワイやっています。即断即決で、社内政治なしで、すぐ動くことをやっています。これらの場は全部知的コンバットを組織化してシステム化しているのです。共感と対話による自在な意味付け、そういう場をきちんと作っているということが非常に重要になります。

 

クリエイティブ・ペア

現象学は、いつも関係性でものを見ているわけです。貴様と俺というね、君がいるから俺がいる、対立項ではないのです。そういう意味で面白いのは、クリエイティブ・ペアです。同質の人間がペア組んだとしても、あまり葛藤は起きず、新しい意味は作れません。異質のペアと言えます。私と共著を出した竹内弘高は、私にとってのクリエイティブ・ペアです。彼は、子供の頃から英語教育を受けていますが、私は英語がほとんどダメなので、英語で著書を出すときは、いつも彼とペア組んでやっているわけです。彼は(私と違って)お酒も飲まない。非常にロジカルなので、それはどういうことのか、と理詰めで問いかけてくる。苦しみ、葛藤の連続です。しかし、その異質性を超えて、うまくいった時は喜び合います。共通項は、カラオケの時、演歌を歌うことくらいです。2つ目のポイントである相互主観というのは、イノベーションという観点でも非常に重要なことなのです。

 

ヒューマナイジング・ストラテジーの基盤 ③自律分散系

3つ目に、フラクタル組織が挙げられます。組織を自律分散系にするのです。

 

チーム・ベース・ダイナミクス:ミドル・アップ・ダウン
-自立分散系組織による全員経営-

自律分散組織のメタファーとも言えるマトリョーシカはいくら割っても、個が全体と同型です。ヒエラルキーの象徴である鉛の兵隊は、硬そうですが、一回壊れると復元できない。

それから、ミドル・アップ・ダウンも大事です。絶えずトップ、フロントがミドルを媒介にして相互作用するのです。トップの掲げる理想と、フロントが直面している現実は、矛盾します。そういう葛藤や矛盾に対して、総合的に対処するのがミドルというわけです。

本質直観とは -真理は常に運動のなかにある-

ここで、皆さんに二つ、現象学の観点からお話ししたいことがあります。

一つは本質直観に関してです。現実は絶えず動いているわけです。動きの中で背後にある普遍は何だと。これが本質なのです。本質直観出は、運動、動きの中で何が普遍なのか、一つ一つの見えの背後にある共通項を自分たちで考え抜いて言葉にしないといけないのです。

例えば、サイコロの例です。我々が左から右に動くとサイコロのいろんな側面が一個一個見えてくるわけです。こちらから見ると、一方が3だと後ろは必ず4です。一つ一つの動きの中で何が普遍なのか言葉を作らないといけない。本質直観というのは、これは立方体だという洞察です。自分で動きながら言葉を作らないといけません。この真理というのは絶えず運動の中にあります。その運動の背後にある普遍の本質は何か、それが本質直観であり、新しいコンセプトです。

幅のある現在:現象学的時間 -客観的時間に対する主観的時間-

もう一つ重要なのは、時間感覚です。「幅のある現在」とは、今我々が感じている「いま・ここ」です。「いま・ここ」は客観的時間ではありません。客観的時間では、過去は消えていく、今は過去になっていく、未来はまだ来ない。時間は点であり、何時何分、客観的時間です。しかし、我々が真剣に知を作るプロセスというのは主観的時間です。我を忘れて夢中になり、やはりこうだよねということに到達するのに客観的時間は関係ありません。

我々が小さいころから慣れ親しんだドレミファソラシドラシドというメロディは、ド、レ、ミ、一個一個の音を我々は認識しているわけではないです。ド、レ、ドレミファソラシドというのは、いま・ここにドが残っている、レの先にミが見えている。これが主観的時間です。この主観的時間には、ありとあらゆる無意識も眠っている、そういった暗黙知をみんなで時空間を共に過ごして、ワイワイやり合うということが非常に重要です。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』。ある時たまたま何の気なしにマドレーヌの一切れを柔らかくするために、紅茶を一杯、口に含んだ。そうしたら、無意識に眠っていた。ある思い出が突然出てくる。これは、人間同士がまさに全身全霊で向き合って、無意識も含めて徹底的にやり合う、すると発想が跳ぶ、新しいコンセプトが出てくる。クリエイティビティが触発される、ということです。

アジャイル・スクラム・プロセス
-「いま・ここ」で「振り返り」「共創して」「やりぬく」-

SECIモデルは、元々、日本企業のハードウェアにおけるイノベーションモデルをベースにしています。現在は我々が書いた論文をもとにソフトウェア開発分野に展開されおり、アジャイル開発の中でも「スクラム」というやり方に応用されています。当時、日本の企業というのはリレー型、要するに分業でした。しかし、これでは臨機応変に顧客の要望、無理難題に答えられない。そこで日本企業が工夫したのが、サシミ型、スクラム型です。

サシミ型というのは、部門の業務が少しオーバーラップしています。スクラムというのはまさに組織の壁を超えて、一心体になって動くやり方です。

我々の論文を読んで、知識創造理論をスクラムに展開したのは、ジェフ・サザーランド博士です。彼らはデイリースクラム、と言って毎朝、あるいは毎日必ずチームメンバー全員に会うのです。アジャイルですから全員立って15分だけやるんです。振り返りから始まるのですが、前回のところどうだった、とポイントだけ共有していくと、全員が文脈も共有していますから、この先にやらなければいけないことが全員で見えてきます。いま・ここで過去と未来がつながっているわけです。だから、会議が終わると、一人ひとりが、機動的に自分がなすべきことをやれるのです。

次にやるのがペアプログラミングです。異質のペアで二人一組、プログラミングを行います。この時に大事なのは異質であることです。

 

「守破離」を通じて全員、卓越の境地に達する
-一人ひとりの潜在能力の開放によるHumanizing Innovation-

スクラムを開発したジェフ・サザーランド博士は、ベトナム戦争の時にファントム(偵察機)のパイロットだった男です。偵察機というのは武器を積むと重くなるため、積んでいませんから危ない。見つかったら終わり。これは二人乗りジェットなので、彼はペアで動くことの良さを理解していました。だからペアプログラミングというやり方を導入したのです。

さらに、彼は、スクラムというのは人間の生き方(a way of life)だと言っています。日本の武道の守破離と通底しているとも言っています。体が覚えるまでやってみるしかないのです。エクセレンスというのは、内から出てくる、その能力は皆に備わっているのだからと言っています。

 

「野性の経営」 -ヒューマナイジング・ストラテジーの必要性-

最後に未来に向けた展望をお話します。

冒頭に申し上げたように、分析のやりすぎで劣化してしまった野性を解放し、錬磨するために人間くさい戦略、つまりヒューマナイジング・ストラテジーがこれからの時代は重要になります。

それは、直接経験が出発点となる未来創造の生き方の物語りだと言えます

サービス業と動画の親和性 暗黙知の「表出化」ツールとしての有効性

ClipLineの高橋さんと知り合い、わかったことは、動画を見ながら全五感で身体感覚を共有しながら、一人ひとり実践を通じて、新たな意味をさらに創っていく。ですから、一人ひとりがクリエイターだと言えます。同時にそのままやっているだけではなく、それを理想の形に持っていくには、こうしたらいいのではないかというものを無限に極めていくわけです。これは私の直感ですから、後ほど詳しくはClipLineの方からお聞きください。

二項対立から二項動態の経営へ
-「あれか、これか(either/ or)」ではなく「あれもこれも(both/and)」へ-

これまでの議論というのは、二項対立で物事を捉え、相手を対象化して、すぐ反論するということであり、「あれかこれか」という考えが非常に強いわけです。

しかし、我々は、二項対立ではなく「あれもこれも」の二項動態という考え方を提唱しています。知識創造理論で言えば、暗黙知と形式知は同じ知識の二つの側面であり、絶えず相互作用しながら状況に応じて一心体になっていくことで新しい意味や価値を生み出すイノベーションを実現する、ということです。そのためこれは相手を倒すということでは無く、相互に生かし合って、新しい知へとトランスフォーメーション(変換)していくダイナミックなプロセスなのです。

 

二項動態の方法論 戦略構想と実践のための物語り(ナラティブ)

物語り(ナラティブ)についてお話ししましょう。戦略とは、分析や論理ではなく、物語ることだというのが基本的な考え方です。人間は論理だけでは動きませんから、メンバーが主体的に理解し、鼓舞され、わくわくする物語りを作らなければなりません。これが非常に重要なことなのです。そのためには、プロットとスクリプトが重要です。プロットとは、筋書きです。わくわくする筋書きを作るというのは、例えば、自分たちの持っている知のネットワーク、関係性で描けます。すなわちコアテクノロジー、コアノウハウって何なのかということです。

単なる事実を集めるだけではなく、物語りとは、創作であり、小説です。ナラティブがストーリーと違うのは、きちんとwhyを示すところにあります。

王様が死んで、王妃が死んだ、これはただ記述しているだけです。王様が死んで、悲しみのあまりというのはwhyです。なぜかというと答えです。whyを突き詰めていくのがpurposeなのです。だからこそ、whyの入った物語りが人々を動かし、戦略を画餅にせず、実現に導くのです。

 

オールブラックスの行動規範(スクリプト)

では、物語りをどのように実践するのかというのがスクリプト、行動規範です。ラグビーのニュージーランド代表のオールブラックスの行動規範がありますが、これが面白いのです。ロッカールームの掃除などの小さなこと、から、知識から理解が生まれ、理解から知恵が生まれ、知恵から幸福が生まれる、という言葉まで、本質が入れ込まれています。螺旋を進みながら進化していく、これこそがオールブラックスの行動規範なのです。

 

ClipLineの動画サービスは物語り(ナラティブ)である
主観的時間のなかでの本質直観

最近、ノーベル経済学賞のロバート・シラーが「ナラティブ経済学」という本を出しましたが、経済学の世界でもようやく物語ということが出てきました。

ClipLineの動画サービスとは、ある意味で、私は物語りだと思っています。共有された動画を実践したメンバーもまた動画作成する主体になって、物語りをオープンエンドに紡いでいくことができます。実にうまく考えているな、ということであります。

自己革新のために挑戦を奨励し、失敗を許容する

最後にリーダーの役割として申し上げたいのは、絶えず挑戦を奨励するということです。同時に重要なのは失敗を許容することです。「Brilliant Failures(輝かしい失敗)」という言葉があります。ソニーの平井さんがトップになってやったことは、新しいイノベーションを起こすプロジェクトを社長直轄にすることでした。一方で、全ての失敗の責任は私が取るといったことを徹底しましたから、メンバーは前例にとらわれない思い切ったチャレンジができ、改革が実現した。そこがすごく重要なことであります。

 

フロネテック・リーダーシップモデル -賢慮・実践知:集合知の動態理論-

絶えず、変化する現実において求められるリーダーシップについて簡単に紹介します。それは、実践知のリーダーシップ(フロネテックリーダーシップ)です。アリストテレスが、賢慮、実践的知恵なども言いました。これは、共通善の実現に向かって、動く現実の只中で本質を直観し、その都度の最善を判断し、試行錯誤しながら実践していくリーダーシップです。以下に示したのが、実践知リーダーシップの6つの要件です。

①    善い目的を追求する

②    現実を直観する

③    場をつくる

④    直観の本質を物語る

⑤    政治力も行使して物語を実現する

⑥    実践知を自立分散化する

 

結論的に言えば、知的体育会系になれということです。以上で終わりたいと思います。