停滞から脱却し始めた日本経済、企業が知るべき「変化」と「兆候」とは? 東大名誉教授が解説
<識者講演>
”変化”を”成長”に変えるための経営戦略
〜伊藤元重教授が語る経済とビジネスの”これから”の捉え方〜
東京大学 名誉教授長 伊藤 元重氏
講演の冒頭で、伊藤氏は「変化」を強調した。30年来続いたデフレがようやく変化の兆しを見せ、日本経済や企業にさまざまな変化をもたらしている。そうした変化に対応していくためには「3つの目」が重要になるという。
まず一つが、鳥瞰図のようにマクロ情勢を把握する「鳥の目」だ。例えば、経済でいえば為替や政策、株価などが対象になる。経営方針など、長期の施策を立てる上では必要不可欠な視点といえるだろう。
加えて必要なのが「虫の目」。自社が属する業界の動向など、個別の細かいところまで把握することも非常に重要になる。そして最後が「サカナの目」だ。魚が潮の流れを読んで変化を知るように、経済やビジネスも“潮”の流れを敏感に読むことが特に重要だと伊藤氏は話す。
では、これらの目を持って、現在の変化をどのように捉えるべきなのだろうか。伊藤氏によると、長らく日本で続いたデフレのキーワードは「停滞」と「安定」だった。消費者物価が上昇せず、一方でサービスや財の価格には「下方硬直性」という特徴があり容易には下がらないため、長らくサービス・財の価格は動くことがなかった。そうすると、各企業は極めて限定的な行動しかとらなくなってしまう。「その意味で、デフレは企業を委縮させていたといえるでしょう」と伊藤氏は指摘する。
しかし、今や日経平均株価は「過去最高」を記録し、賃上げする企業が相次ぐなど、停滞と安定から、「変化」と「不確実性」の時代へと変化しつつある。2013年、日銀の総裁に黒田東彦氏が就任した際に目標として掲げた、2%の物価上昇は今や達成され、消費者物価指数は2%超となっている。コスト増という理由もあるが、企業も値上げに積極的だ。
「ある会社の社長が、雑誌の取材に対して『値上げは営業の問題ではなく、経営の問題であり、社長の問題である』と答えていました。値上げを顧客・消費者に認めてもらうためには、商品の品質を高めたり、新たな付加価値を出したり、あるいは生産性を上げたりする必要があります。つまり、企業へ新たな投資を求めるのが値上げなのです。その意味で、企業の行動は物価が上がらなかった時代から、大きく変化してきているのです」
デフレからの脱却と聞くと、既に現状はインフレ状態になっているのか、という疑問がわく。この点について、伊藤氏は「輸入インフレから国内インフレへとシフトしているのかがポイントです」と話す。
日本を除き、世界的なインフレが続いているが、その発信源は米国とされる。2020年初頭に新型コロナウイルスの感染が世界的に広がり、経済がシャットダウンしたのは記憶に新しい。そこからいち早く変化したのが米国だった。「2021年春ごろから需要が増えました。コロナ禍による減税や給付金の影響で、いわゆる“リベンジ消費”などがあったのも一因でしょう。一方、コロナ禍で経済が落ち込み、雇用を減らしていた企業も多く、旺盛な需要に対して供給を増やせずにいました。
こうした状況はまだ米国で続いています。1年ほど前の米国紙の記事では、ある小売業者が『サプライチェーンが崩壊して商品が届かないし、エネルギー危機で光熱費も高い。人手不足で働き手も集まらないし、中央銀行(連邦準備制度理事会、FRB)が金利を上げたので借金も大変だ』と答えていました。事業者や企業が苦しいのに、お客さんは絶えない。これが米国の現状なのです」
激増する需要に対応するには、人手を増やすしかない。しかし、米国も人手不足に直面している。このような構造が米国における物価と賃金の引き上げにつながり、加熱する経済にブレーキをかけるために、FRBは金利を高めざるを得ない状況に陥った。つまり、米国のインフレは国内型、といえる。
一方の日本はどうか。これまで、国内の物価は上昇せず、輸入物価指数のみが上昇を見せていた。すると、企業間の売買物価も高まる。しかしながら消費者物価が冷え込んでいたため、各社は値上げに踏み切ることができなかった。また、輸入物価は国内の大半を占めるサービス業への影響がそこまで大きくなく、その意味で23年初頭ごろまでは、一種の輸入インフレ的な状況だったといえるだろう。
そこからの転機となったのは、2023年の春闘だ。平均賃上げ率が過去30年で最大の高さとなり、大きな話題を呼んだ。2024年の春闘でも、第1回回答集計で賃上げ率は5%を超え、33年ぶりの高水準となっている。伊藤氏は次のように話す。
「賃金の上昇は、全ての産業とともに物価にも影響します。そこから物価と賃金が持続的に上昇する循環へとつながり、国内型のインフレになっていきます。これがまさに今、国内で起こっていることです」
ここまでは、国内ですでに起こっている変化に対する伊藤氏の分析だ。今後、さらにどのような変化へとつながっていくかのポイントの一つは、金融政策だという。中でも為替に影響する金利が急速に上昇するのか、あるいは緩やかに上昇するか、注目しているという。
日銀の金融政策を振り返ると、2013年に黒田東彦氏が総裁に就任すると、デフレからの脱却として「2年以内に2%の物価上昇」などを掲げた。国債を日銀が買い取り、市場に大量のお金を流す「量的緩和」政策をとった。影響は大きく、株価の上昇や円安を招き、企業の業績も高まったことで「黒田マジック」と話題を呼んだ。
しかし、これはあくまでカンフル剤にしか過ぎず、徐々に効果は薄まってしまう。そこで黒田日銀が繰り出したのが「マイナス金利」政策だった。長らくデフレが続く中でゼロ金利となっていたものを、さらにマイナスへと調整したが、各所への影響が大きく、長期金利と短期金利を操作する「イールドカーブ・コントロール」を行う「異常な体制」(伊藤氏)に陥った。
このような前提があったものの、最終的に大きな影響を与えたのは、コロナ禍と地政学的な出来事だったと伊藤氏は話す。現在、日銀の総裁は黒田氏の後任である植田和男氏となり、マイナス金利政策をどうするのかに注目が集まっているという。そんな中、日銀はゼロ金利を解除する見通しだ。
長期金利の代表的なインデックスである10年もの国債は、現在米国債との開きが大きく円安の要因となっている。より金利が高い方に投資した方が利回りが良く、一般的には日本国債よりもドル債に人気が集まる。とはいえある程度は人気の過熱を防ぐ必要があり、ドルが高くなるような政策によって、現在のような円ドルレートになっていると伊藤氏は話す。
「本来、円ドルの均衡レートは110円ほどだと考えています。それが150円ほどで推移しているのは、日本と諸外国の金利差で“ゲタ”を履いているからです。そのため、今後金利差が縮まっていけば、よりレートが円高へと振れていくのではないでしょうか」
講演では賃上げの展望にも話が及んだ。伊藤氏によると、これまでも賃上げの機運はあったものの、あくまで「日本経済のために賃上げを行うべきだ」といった形の“他人事”的な言及が多かったという。それが、今や自社の採用確保のために、賃上げを真剣に考える企業が増えてきた。
賃上げの今後について、伊藤氏は「3つの理由から賃金はこの先も上昇していくはずです」と話す。理由の一つが、深刻な人手不足だ、すでに少子高齢化は課題とされているものの、より激化していくのは今後といえる。賃上げできない企業は魅力がない企業とみなされてしまうため、何とか賃上げする企業が増えていくと見ている。
2つ目の理由が、人材の流動性が高まっていることだ。これまでの年功序列・終身雇用といった“神話”が崩壊しつつある今、転職は非常にカジュアルなものとなった。転職を考える際に賃金は大きな要素となり、先ほどの人手不足と同様に企業の魅力として、賃上げせざるを得ない状況となっている。
最後の理由が、日本の賃金が国際的に「安すぎる」ことだ。例えば、米国・ニューヨーク市と近郊における最低賃金は2024年1月に16ドルとなった。1日8時間を25日、レートが1ドル140円とすると、およそ45万円。日本の賃金水準とは雲泥の差だ。市場を国外に見出していく上では、従来の水準を見直す必要があるだけでなく、国内を主戦場とする企業も安穏とはしていられない。イケアやコストコといった外資企業が、周辺よりも高い時給で人材を確保するようなケースも増えているからだ。
講演の結びとして、ようやくデフレから脱却して動き出したかのように見える経済を、持続的な成長に結び付けるためには「国内投資」が重要だと伊藤氏は指摘した。
「これまで中国や欧州などへの投資が多く、経済の空洞化が起きていました。すると、国内の生産性や競争性が高まりません。今後、国内への投資を呼び込むためにはGXやDXなどのテーマに目を向けることも必要でしょう」(伊藤氏)
より大きな投資を呼び込み、企業が成長していくためには、今回の講演で触れてきたような変化の現状や、その背景にまで目を向ける必要がある。金融緩和だけでなく、財政による産業支援も活発になってきている。自社が適したフィールドで、あるいはこれまでチャレンジしてこなかった領域に目を向けることが、変化の激しい時代のヒントになるはずだ。
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